鉄砲職人の家の4男として生まれたとされる。火の見櫓のそばに生家があったため、櫓下四郎とも呼ばれた。元々は聡明な子供だったが、7歳の時、花火見物中に誤って広瀬川に転落して溺れ、1週間意識不明で生死の境をさまよった。それが元で知的障害を負ったとされる。言葉は「バアヤン」としか話さず、市中を歩き回って人に金品をもらったりしていた。人に危害を及ぼすことはなく、子供が好きで、いつも機嫌よく笑っていたという。
「四郎馬鹿(シロバカ)」などとも呼ばれたが、立ち寄る店は必ず繁盛するとされたため、どこでも無料でもてなされた。四郎は素直な性質であったが、気に入らない店には誘われても決して行かなかったという。
やはり無料で鉄道を利用し、宮城県内の白石や、福島県の福島、白河、さらには山形県の山形まで足を伸ばしていたらしい。
四郎は1902年(明治35年)頃に須賀川にて47歳で死んだとされるが[1]、諸説ありはっきりしたことは分かっていない。なお、釜山港漫遊中との新聞記事が生前の最後の記録という[2]。
訪れた店は無料で持成したとされるが、実際には家人が後に支払いに回っていたこともあった。店にしてみれば、どんなに高額な飲食でも、必ず後で代金を支払ってもらえる上客とも解釈できる存在であった、という側面も有する。