日本の法律家たちの多くは、権利や自由を重視する考えは、近代の啓蒙主義やフランス革命、あるいは人権宣言によってはじめて登場した、とこれまで考えてきた。その考えによると、権利と自由こそ近代社会の指標に他ならない。日本人が権利意識に乏しく、裁判を嫌うのは、後進的で、近代化が十分でないからである。近代化を推進するために、われわれは、権利意識を高め、裁判に訴える機会を増やさなければならない、と。
しかし、決闘裁判の考察から明らかなように、「権利のための闘争」はヨーロッパの土壌に深く根ざしており、歴史的かつ文化的なものである。われわれが「権利のための闘争」に違和感を覚えるのは当然であろう。権利主張が義務であるかのように語られることそれ自体が矛盾であり、その違和感の存在を証明している。
しかも、その戦いは、実はそれほど颯爽としているわけではなく、凄惨で暴力的だった。戦いに流血はつきものである。決闘裁判がもっとも具象的に示しているように、欧米世界で発達した裁判においては、血と暴力という影と、権利と自由という光が交錯している。裁判だけではない。法も同様である。この光と影の交錯が欧米の法文化を彩っているといってもよいだろう。おそらく、現代の国際社会においても、欧米諸国によって法と正義が語られるとき、このような光と陰の交錯は避けられない。
それゆえ、欧米の法文化には、それだけの厳しさがある。私たちは、欧米法文化の影響を強く受けてきた。現代の世界もまた同様である。だから、私たちは欧米の法文化をもっと深いところから理解し、その上で自分たち自身の問題に立ち向かい、それを解決していかなければならない。